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中国は統一した多民族国家であり、チベットは古くから中国の不可分の一部である。
7世紀の唐の時代、チベット族と漢族は王室の間で姻戚関係、盟約を結んで、政治的に団結友好の姻戚関係を形成し、経済と文化の上でも密接に結びつき、最終的に統一国家をつくるための厚い基盤を固めた。現在も、チベット自治区の首府ラサのポタラ宮には、641年に唐の王室からチベット族吐蕃王に降嫁した文成公主の塑像が奉られている。チョカン寺(大昭寺)の前の広場には双方が盟約を結んだことにちなんで、823年に建てられた「唐蕃会盟碑」が立っている。この碑には次のような碑文が刻まれている。「舅甥二主が社稷が一つとなることについて商議し、大和の盟約を結んで永遠に変わらないことは神、人と共に証し、知るところであり、世世代代にわたり称賛させるものである」。
元の時代(1271年-1368年)、元の皇帝は宣政院を設置し、チベット地域の軍政両面の要務を直接管理させた。この機構の要員は皇帝自ら選任し、その報告も直接皇帝のもとに送られた。チベット地域には、宣政院に属する地方の軍と政府機関「宣慰使司都元帥府」が置かれ、チベット駐留軍を派遣していた。元の朝廷は三回にわたりチベットで人口調査を実施し、またチベットに大小の宿駅を設け、それらを結んで、チベットから大都(現在の北京)に至る交通網を確立した。
明の時代(1368年―1644年)、大体元朝を踏襲して、チベットに対する統治権を継承した。明の朝廷はチベット各地の宗教首領に「王」、「法王」、「灌頂国師」などの称号をあたえた。王位の継承は皇帝の許可が必要で、冊封の使者が派遣されてはじめて即位できる仕組みであった。??????と????????は明の時代に興ったチベット伝統仏教の??????にぞくする。明の朝廷の特別扱いで、一寺院の住職であった第三世??????は自身の朝廷への進貢が認められ、???????の名称を送られた。
清の時代、チベットに対する統治と管轄を更に強化した。1727年にはチベット駐在大臣を配置し、中央政府を代表してチベット地方行政の監督に当たらせた。チベットと近隣地方との境界も正式に確定した。チベット行政機能を整備するため、清の朝廷は何度も整頓改革し、1793年に「欽定蔵内善後章程」を制定発布し、チベット地方行政制度を詳細に規定した。
中華民国の時代も、中央政府は蒙蔵事務局、蒙蔵委員会などを設置して、チベット族、蒙古族など少数民族地区の行政を主管させた。1940年4月、国民政府はラサに蒙蔵委員会、チベット弁事処を設け、チベットにおける中央政府の常設機構とした。??????と????????は引き続き民国中央政府の承認を得て、政治上、宗教上の合法性を得ていた。現在の第14世??????(本名???????)も民国国民政府主席の命令によって認定された。

1949年、中華人民共和国が成立した。1951年5月23日、中央人民政府とチベット地方政府の代表は、チベットの平和解放に関する一連の問題について合意に達し、「チベット平和解放の方法に関する中央人民政府とチベット地方政府の取り決め」(「十七条取り決め」)が調印された。1954年、????と??????は共に北京に赴いて中華人民共和国第1回全国人民代表大会に参加し、この会議で????は全人代常務委員会副委員長に、??????は同常務委員会委員に選出された。1959年の叛乱平定後、中央人民政府はチベットで民主改革を進め、暗黒の封建農奴制を廃止し、百万に及ぶ農奴と奴隷は自由の身になり、もはや農奴主の個人の財産として売買、譲渡、交換、債務返済に使われることはなくなり、農奴主に労働を強いられることもなくなった。1965年9月、チベット自治区が正式に成立した。 |